和菓子について



 

●和菓子とは?

和菓子は、日本の伝統的製造法で作られた菓子のことです。

この言葉が定着したのは第二次世界大戦の後であり、国語辞典などにも登場し始めました。

遣唐使によって伝来した唐菓子や、宣教師によって伝えられた南蛮菓子も和菓子に含まれるようです。

遣唐使の時代は、唐菓子が移入され、粉をこねたり油で揚げるなどの 技術が伝わりましたが、多くは祭神用として使われました。

茶の伝来後、喫茶の習慣が発達すると、お菓子も趣向をこらすようになり製菓技術は大変進歩しました。

南蛮菓子も渡来し、カステイラ、ボーロ、ビスカウト、こんぺい糖などが紹介され、これらのお菓子の製法が和菓子の発展に大きく寄与しました。

江戸時代には、京都の「京菓子」と江戸の「上菓子」が競い合って、和菓子製造技術は大きく発展し、現代の和菓子とほとんど変わらないものが登場します。

その多くは現代でも食べられています。

明治時代に西洋菓子が伝わり、和菓子の成長に大変大きな影響をもたらしました。

オーブンの登場で、栗饅頭やカステラ饅頭などの焼き菓子の多くが明治以降に誕生しました。

●遣唐使時代のお菓子

「ばいし」「とうし」「かっこ」「けいしん」「てんせい」「ひちら」「ついし」「だんき」などと呼ばれ、米、麦、大豆、小豆などをこねたり、油で揚げたりしたもので特徴のある形をしており、祭祀用として尊ばれていました。

これらが、和菓子に大きな影響を与えたと考えられています。

●鎌倉〜室町時代、安土桃山時代

茶が伝来しました。

このころの茶席には、点心(「茶菓子」とも「お茶受け菓子」とも)という定時の食事以外の軽食がありました。

点心は、

・羹物(あづもの 汁物のことで、48種類ほどの具材があった)
・麺類(うどん、そうめん)
・蒸菓子(蒸まんじゅう、蒸羊かん)

3種類に分類されました。

この時代に、まんじゅうが出現します。

まんじゅうは唐菓子のだんきの中で、似ているものはあったが、南北朝時代に元の曽 林浄因により、奈良でまんじゅうの製造が伝えられ、「奈良まんじゅう」と呼ばれ、後に京都に移り本格的に製造されることとなりました。

その後、ポルトガル人やスペイン人により(その当時、ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人と呼んでいたため)南蛮菓子が渡来します。

ボーロ、カステイラ(カステラ)、金平糖(こんぺいとう)、ビスカウト(ビスケット)、パン、有平糖(あるへいとう)、鶏卵素麺などで、現在でも食べられている和菓子の原型となっています。

●江戸時代

江戸時代は、人々の暮らしがだいぶ穏やかになり、菓子づくりに力を注ぐことができるようになりました。

京都の「京菓子」と江戸の「上菓子」が競い合うように、菓銘や意匠に工夫を凝らした和菓子が次々に誕生します。

日本中の城下町や門前町で独特の和菓子が生まれたのもこの時代です。

現在食べられている和菓子の多くは、江戸時代に誕生したものです。

●桜餅

桜餅には、「長命寺 江戸風」と、「道明寺 上方風」があります。

●「長命寺 江戸風」

塩漬けの桜の葉を使った、江戸が発祥の桜餅です。

山本新六により、隅田川の土手の桜の葉を使い作り出された。

江戸時代の享保二年、江戸向島の長命寺の門前で売り出したところ、付近の隅田堤に将軍吉宗の台命による桜が植えられ、花見客で賑わい、繁盛しました。

分布…関東甲信地方、東北地方(福島県、宮城県、岩手県、青森県旧南部藩地域、秋田県)、静岡県、長野県、石川県金沢市

●「道明寺 上方風」

道明寺粉を使い、桜の葉で包みます。

京都の和菓子店などでよく見られるため、京風桜餅とも呼ばれます。

大阪府藤井寺市に材料の道明寺粉の由来になったと言われている、同じ名前のお寺があります。

分布…近畿地方、北陸地方、中国地方、四国地方、九州地方、東北地方日本海側(山形県庄内地方、青森県津軽地方)、北海道(北前船で北方へ伝えられました)、関東甲信地方、静岡県

●大福

江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)をその後、江戸・小石川で小さく作り直され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされています。

腹持ちがいいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていましたが、吉字を使った大福餅に変化したようです。

●きんつば

江戸時代中期に京都で考案された菓子であり、米粉で作った生地で餡を包んで焼いたものです。

当時はその形状と色から「ぎんつば(銀鍔)」と呼ばれていました。製法が京都から江戸に伝わると、生地の材料が米粉から小麦粉になり、銀より金のほうが景気が良いという理由で、名前が「きんつば」に変わったようです。

鍔は、日本刀の鍔のことです。

●最中

餅から作った皮で餡を包んだお菓子です。

最中の原型は、もち米の粉に水を入れてこねたものを蒸し、薄く延ばして円形に切りそろえたものを焼き、仕上げに砂糖をかけた、干菓子だといわれています。

これを使って餡を挟んだ菓子が江戸時代に考案されましたが、餡を挟む方法に改良が加えられ、明治期以降に現在の形の皮となりました。

皮種で餡を挟んだ最中が、やがて全国的に広められていき、現在では各地で色々な種類の最中が銘菓として売り出されています。

拾遺和歌集にある源順の歌を知っていた公家たちが、宮中で行われた月見の宴で、白くて丸い餅菓子が出されたのを見て、会話の中で「もなかの月」という言葉が出たことから、そのまま菓子の名前として定着したといわれています。


 

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